1. HOME
  2. 活動日誌
  3. 未分類
  4. 本願寺常例布教にご縁をいただきました

本願寺常例布教にご縁をいただきました

てんぷるらいふのえだひろだいちです。

4月4日~7日(晨朝7分 昼30分2席)まで本願寺の常例布教にご縁をいただきました。

(京都西本願寺では、本願寺北の聞法会館1F総会所において、毎日僧侶による法話がなされています。どなたでも無料で自由に参拝できます。YouTubeでも毎座ライブ配信されています。詳細は西本願寺のHPをご覧ください)

この度は大きなテーマとして「阿弥陀様の願い」と掲げさせていただきました。阿弥陀様が私にかけてくださっている願いを中心にお話をさせて頂きました。

お話しさせていただく中で、「なぜ私はお念仏をお称えしているのだろうか?」ということを、ふと思いました。

浄土真宗では、「法話者も聴聞者ですよ」と教えられます。これは法話者というのは決して教化者ではなく、法話者も聴聞者も共に阿弥陀様に救われていく側であるということであります。また、浄土真宗の法話は決して法話者の感想ではなく、阿弥陀様の御心が中心であるということを大切にしているということです。(浄土真宗の法話者は、自分が法話をするのに「共に聞かせて頂きましょう」とよくいいます。普通に考えたらおかしいですよね。笑)

さて、常例布教2日目。4月5日のお昼の席です。実はお話をさせて頂きながら、「自分がお念仏をお称えしていることの不思議さ」をふと思ったのです。まぁ聴かれている人にはばれてないと思いますが。笑

その時のご讃題(法話のテーマとなるお言葉)は

乃至十念と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことをを十念にそへて誓ひたまへるなり。(『浄土真宗聖典』註釈版p644)

というお言葉でした。これだけではなんのこっちゃって感じですね。笑

現代語訳を載せます

「乃至十念」というのは、阿弥陀仏が本願に誓われた名号を称えることをお勧めになるにあたり、念仏の数がさだまっていないことをあらわし、また念仏する時を定めないことをすべてのものにしらせようとお思いになり、「乃至」の言葉を「十念」の名号、すなわち十回の念仏に添えてお誓いになったのである(『尊号真像銘文』現代語訳p4~p5)

このお言葉は阿弥陀様が法蔵菩薩様というご修行中の際に建てられたお誓いについて、親鸞聖人がそのお心を明らかにしてくださっているお言葉です。

このことにより、阿弥陀様は私に「南無阿弥陀仏を称えてくれよ」と願われ、その願いの通り成就してくださった仏さまだという事が分かります。

なぜ私はお念仏をお称えしているのだろうか?その答えがこの御文にあるように思います。それは「お念仏称えてくれよ」と願われた仏さまが「称えさせるぞ」とはたらいてくださっているからでありました。

実は御法話をさせて頂きながら、改めてそんなことを思わせて頂いていたのです。否、聞かせて頂いていたのです。

阿弥陀様ってほんとにいるの?お浄土ってほんとにあるの?そんな疑問を持たれることがあると思います。

疑問に思っている学生服姿の女の子のイラスト | 高品質の無料イラスト素材集のイラサポフリー

私もそんなことを思っていたことがあります。しかし私の口からお念仏が出てきてくださることが、なによりもの証拠なんですね。

阿弥陀様がいらっしゃらなかったら、私がお念仏をお称えすることなんてホントはないんです。私の中からお念仏をお称えしようなんて、想いは出てこないんです。そんな心全くないんですよ。本当は。というか本来は。お念仏お称えするどころか、仏法なんて聞きたくない。お浄土に生まれる手立てなんて全くない身なんですよね。

でもその私がお念仏しているんです。お念仏称えようと想い、お念仏称えているんです。不思議ですよ。ほんとに。それこそ阿弥陀様が私にはたらいてくださっているお姿そのものだったんですね。

そして私に告げてくださっている。「お浄土へ生まれさせるから、お浄土へ生まれておいで」と。

阿弥陀様はお念仏となり私のもとに来てくださって、私に称えられ、私に「お浄土へ生まれさせるから、お浄土へ生まれておいで」と告げてくださっている仏さまでありました。

なんかそんなことを思わせていただきながら、お取次ぎをさせていただいておったのです。ここだけの話。なんまんだぶ、なんまんだぶ

これが私の御領解です。この度も尊いお育てをたまわりました。ありがとうございました。

執筆 えだひろだいち

PS 帰路につく際、花まつりの白いゾウがおりましたので記念に一枚とりました。ちゃんちゃん